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キッシンジャー元米国務長官死去 米中国交正常化に道筋 2023/11/30

【ワシントン=坂口幸裕】米ニクソン、フォード政権で国務長官などを務めたヘンリー・キッシンジャー氏が11月29日、死去した。100歳だった。ニクソン政権で大統領補佐官(国家安全保障担当)に就き、1971年に当時国交がなかった中国を極秘に訪れて79年の米中国交正常化に道を開いた。73年には泥沼化していたベトナム戦争の和平交渉をまとめ、ノーベル平和賞を受賞した。

1923年にドイツでユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれたが、反ユダヤ政策をとったナチス政権の誕生を受けて38年に米国に移った。米ハーバード大で博士号を取得し、同大で教壇にも立った。68年の大統領選で勝利したニクソン氏に請われて大統領補佐官に起用され、外交を仕切った。

71年7月に同盟国の日本にも知らせず北京を訪れ、共産圏の中国の周恩来首相(当時)と会談した。ニクソン大統領(同)が72年2月に米大統領として初めて訪中する地ならしとなり、79年の正常化につなげた。それは当時、米国の最大の敵だったソ連との関係を優位にするための現実主義に立った判断だった。

保守派の反共主義者として知られたキッシンジャー氏による中国接近は中ソ関係にくさびを打ち込み、デタント(緊張緩和)への譲歩を引き出す狙いがあった。その後の米ソによる第1次戦略兵器制限条約(SALT1)調印などにつなげた。

米中国交正常化は現在の台湾問題の起点になった。米国は中国と国交を結ぶ一方で台湾と断交した。中国大陸と台湾が1つの国に属するという「一つの中国」政策はバイデン政権を含む歴代の米政権が踏襲する。

米国が「関与政策」を続けた結果、中国は経済、軍事の両面で最大の脅威となり、トランプ前政権以降の対中政策は転換を迫られた。経済支援や国際秩序への取り込みを通じて発展を促せば、中国の政治体制も変化して将来の民主化につながるとの戦略は失敗した。

ベトナム戦争の終結にも尽力した。フォード政権では国務長官を兼務し、北ベトナムと秘密交渉にあたった。73年1月の停戦協定と米軍撤退に結びつけ、ベトナム戦争は終結した。第一線を退いた後はコンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、外交政策を積極的に提言。外国首脳との仲介役も担った。

(日経新聞)

理念と現実政治をつないで キッシンジャー氏死去 2023/11/30

29日に亡くなったヘンリー・キッシンジャー氏にはふたつの顔があった。ハーバード大で教鞭(きょうべん)をとった国際政治学者と、ニクソンとフォードの共和党政権で国務長官などを務めた権力の担い手だ。高い理念を掲げつつ、外交現場では徹底した現実主義で臨み、ふたつを巧みにつないだ。

同じことを試みたマドレーン・オルブライト氏やコンドリーザ・ライス氏の足跡と比べると、手腕の卓越ぶりがわかる。米ソが友好関係だった時期に冷戦の到来を予言したジョージ・ケナン氏と並び、20世紀の米外交の針路を定めた。

国務長官を退いてからはニューヨークの国連本部近くに居を構え、世界中の首脳がひきも切らず訪れた。国際関係への影響力は歴代大統領よりも大きかった。

キッシンジャー・イズムとは何か。ソ連に対抗するため、中国に接近して共産陣営の分断を図った「忍者外交」にばかり光が当たりがちだ。手練手管は本質ではない。

「倫理面抜きで力を計算すれば、すべての意見のちがいが、力試しになってしまう」。著書「国際秩序」はそう指摘する。軍事バランス一辺倒のパワーゲームとはとりわけ距離を置いた。

中国との関係正常化に向け、まず古代王朝の歴史を調べた。欧米とは異なる思考回路を読み取ろうとした。同書には「世界秩序は競い合う主権国家の釣り合いではなく、宇宙のヒエラルキーを反映している」との、いかにもキッシンジャー流の説明が出てくる。

すぐれた構想力を持つがゆえに、言葉遊び的な側面があったことは否定できない。代表例がベトナム戦争の終結に向けたパリ和平会議で打ち出した「穏当な間隔」である。米軍の「名誉ある撤退」を保証すれば南北ベトナム統一を容認するという意味だ。

「間隔」を根拠に「ベトナム戦争に負けたのは南ベトナム。米国ではない」と主張したが、米国民の喪失感を埋めることはできなかった。

ある米政治学者に人物評を聞くと、「ビッグワードの人」という答えだった。よくいえば壮大な世界観を示す人であり、悪くいえば理解しがたい人ということだ。

米中関係が悪化してからも、友好を説き続けたため、晩年は存在感を失った。キッシンジャー氏がかかわった、中国大陸と台湾が一つの国に属するという「一つの中国」の合意は風前のともしびである。ただ、「一つの中国」を上塗りするビッグワードを米国が生み出せていないことは、キッシンジャー氏の存在感の大きさの逆説的な証明ともいえる。

日本との相性はよかったとは言い難い。なかでも田中角栄首相との関係はぎくしゃくした。田中訪中はニクソン訪中より後だったが、日中の正常化が順調に進んだことで「手柄を取られた」と感じたらしい。プライドの高さがうかがえる。

(日経新聞)

キッシンジャー外交の光と影 2023/11/30

冷戦期に米国務長官や大統領補佐官(国家安全保障担当)を歴任したヘンリー・キッシンジャー氏が死去した。米外交を主導し、米中の和解やベトナム戦争を終結に導く重要な役割を果たした。その功罪を冷静に分析することは、望ましい外交や国際関係のあり方を考えるうえで意味が大きい。

キッシンジャー外交を象徴するのが対中政策の大転換である。1971年に極秘訪中し、翌年のニクソン大統領の訪中と79年の米中国交正常化に道を開いた。

対立してきた共産主義陣営の中国への接近は中ソを分断し、ソ連との冷戦を優位に進める狙いがあった。ソ連とのデタント(緊張緩和)は、米ソ間で初の軍備管理条約の締結につながった。

底流には政治体制や価値観の相違にこだわらず、勢力の均衡をはかるリアリスト(現実主義者)としての考え方がある。こうした手法は大国同士の利害や関係の安定を優先し、民主主義や人権といった理念や周辺国への配慮を二の次にしがちな面もあった。

ウクライナ戦争の早期終結に向け、ロシアによるクリミア半島併合を容認するかのような発言をして物議を醸したのはその一例だ。

中国の発展を通じて国際秩序への取り込みを図ろうとした歴代米政権による「関与政策」の源流はキッシンジャー氏の訪中にある。そこには将来の民主化への期待も込められていた。中国の現状をみれば、その期待は大きく裏切られたと言わざるを得ない。

関与政策は中国の台頭を早め、結果として対立を強めた。対中強硬に軸足を移したトランプ前政権の方針をバイデン政権も踏襲する。キッシンジャー氏は政府の役職を退いた後も歴代の大統領に助言してきた。同氏の存在が米外交にどんな影響をもたらしてきたのかはなお検証が必要だろう。

キッシンジャー氏による対中政策の変更は同盟国の日本には寝耳に水だった。その教訓を日本は忘れず、あらゆる事態を想定した外交を心がけるべきだ。

(日経新聞)

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