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ゴルバチョフ元大統領死去 91歳、ソ連最後の指導者 ノーベル平和賞、冷戦終結に導く 2022/08/31

ゴルバチョフ氏はペレストロイカを提唱し、ソ連の改革を断行した(1989年11月、モスクワ)=AP

旧ソ連最後の最高指導者で初代ソ連大統領となったミハイル・ゴルバチョフ氏が30日、死去した。タス通信などロシアの複数の通信社が、モスクワの中央クリニック病院の話として伝えた。91歳だった。東西冷戦を終結させ、ベルリンの壁を1989年に崩壊に導き、その後の東西ドイツ統合を実現した最大の立役者。90年にノーベル平和賞を受賞した。

タス通信によると、中央クリニック病院は「重い長期の病気の後、ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ氏が今晩、死去した」と述べた。死因など詳しいことは明らかにしていない。

タス通信は関係者の話として、ゴルバチョフ氏は新型コロナウイルスの感染が拡大した2020年に同病院に入り、療養を続けていたと報じた。ただ、死因は新型コロナではないという。

モスクワのノボデビッチ墓地に、先に死去したライサ夫人の隣に埋葬されることになるとの見方も伝えた。

1931年3月ソ連ロシア共和国南部のスタボロポリ地方生まれ。55年モスクワ大法学部卒業後、故郷に戻り共産党での活動を本格化した。85年にチェルネンコ氏の死去を受けて54歳の若さで最高指導者である共産党書記長に就任した。

立て直しと情報公開を意味するペレストロイカ、グラスノスチを提唱し、経済的に閉塞感が漂い、秘密主義が横行していたソ連の政治・経済体制の改革を断行した。

書記長就任前から英国のサッチャー首相(当時)が「彼となら仕事ができる」と述べるなど、従来のソ連の指導者のイメージを一新した。西側では「ゴルビー」の愛称で人気を集めた。

新思考外交を掲げ、イデオロギー色が強い外交政策を転換した。米国のレーガン大統領(同)とは87年に中距離核戦力(INF)廃棄条約に調印するなど核軍縮の流れを決定づけ、89年12月にはマルタで米国のブッシュ大統領(同)とともに東西冷戦終結を宣言した。中国との関係改善やアフガニスタンからの軍撤退も実現した。

90年には一党独裁の放棄や大統領制の導入などを決め、自ら初代大統領に選出された。しかし、91年8月のクーデター未遂を契機に権力はロシア共和国の大統領となっていたエリツィン氏に移った。同年12月に独立国家共同体(CIS)創設に伴うソ連崩壊で大統領を辞任した。

辞任後はシンクタンク、ゴルバチョフ財団を創設し、海外での講演や環境保護運動などを中心に活動、日本にも頻繁に訪れた。ただ、国内ではソ連崩壊とその後の混乱を招いたとして人気は低く、96年の大統領選では得票率が0.5%にとどまった。

2006年11月、ドイツで頸(けい)動脈の手術を受けるなど健康不安が出ていた。アルツハイマー病も発症しており、近年は活発な活動は控えていた。

ウクライナ侵攻を巡っては、ゴルバチョフ財団が2月26日、一刻も早い戦闘停止と和平交渉開始を呼びかける声明を出した。平和の実現を祈る情報発信を続けていた。

(日本経済新聞)

ゴルバチョフ元大統領死去 冷戦終結の立役者、プーチン体制の芽残す 2022/09/01

旧ソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ氏が8月30日、モスクワ市内の入院先で死去した。91歳だった。東西冷戦を終結に導いた政治家の人生は勝利と挫折、信念と妥協という二面性がつきまとうものだった。(評伝国際面、関連記事を社会2面に)

1985年に54歳の若さで最高指導者である共産党書記長に就任。立て直しと情報公開を意味するペレストロイカとグラスノスチを掲げ、政治・経済改革を断行した。

ゴルバチョフ氏が東欧の民主化や東西ドイツの統一などヤルタ体制に代わる新たな秩序作りの立役者であることは間違いない。しかし、本人の意図に反してソ連は崩壊。その混乱はいまの強権的なプーチン体制を生むことになった。

「対立、軍拡、精神的不信感は過去のものにしたい」。1989年12月、地中海のマルタでブッシュ米大統領(第41代)と並んで記者会見し冷戦終結を宣言した。そのほぼ1カ月前にベルリンの壁崩壊を目の当たりにしていた世界は新時代の到来を確信した。

しかし、急激な変化には障害が多すぎた。はびこる官僚主義、保守派の抵抗が立ちはだかった。

90年に大統領制を導入し権力基盤の強化を図るが、妥協を余儀なくされた。同盟国だった東欧諸国の民主化を容認する一方で、ソ連を構成したリトアニアで起きた独立運動では、ソ連軍による武力制圧を承認し流血事件を招いた。

誤算は、自らが動かした歴史の歯車が志向した枠を大きく超えて回転したことだ。理想と現実とのギャップが広がり、ソ連は崩壊に向かった。

ゴルバチョフ氏から権力を奪ったエリツィン大統領のもと、新生ロシアは経済的、社会的混乱に陥り、大国の地位を失った。背景には西側による支援の不足もあった。

それを立て直すために登場したのが「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的悲劇」と位置づけるプーチン大統領だ。混乱の反動がいまの強権を招いたとするなら、皮肉なことに生みの親はゴルバチョフ氏ともいえる。

旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチン氏は国内に「安定」をもたらすためメディア統制や野党勢力への弾圧を徹底。政権内からリベラル派を排除し、民主改革路線は頓挫した。

一時は主要8カ国(G8)に加わったが、北大西洋条約機構(NATO)拡大への不満が政権内を支配。西側との関係悪化は決定的となった。

その行き着く先が今年2月に始めたウクライナ侵攻だ。プーチン氏はゴルバチョフ氏が捨て去った帝国主義的な野心を再びあらわにし、時計の針を逆回転させている。

世界はいま核戦争の可能性も指摘されるほどの危機のさなかにある。「永続的な平和にとって障害になるのはナショナリズムと分離主義だ」。1990年のノーベル平和賞受賞記念講演でのゴルバチョフ氏の発言がプーチン氏に響く日はいまのところ訪れそうにない。

(編集委員 坂井光)

(日本経済新聞)

平和希求 最後まで ゴルバチョフ氏死去 ウクライナ憂う 2022/09/01

プーチン氏はゴルバチョフ氏の人生をかけた事業を台無しにした――。旧ソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ氏は死去する前、ロシアによるウクライナ軍事侵攻についてこう考え、落胆していたという。東西冷戦の終結を導き、全体主義国家のソ連邦の幕を引いた歴史的な政治家は最後まで平和を訴えたが、ウクライナの戦闘終結を見届けることはできなかった。

ゴルバチョフ氏が生まれ育ったロシア南部スタブロポリの家を訪れたことがある。静かな農村、平屋建ての小さな一軒家だった。

豊かな穀倉地帯の風景は地理的に近いウクライナに続いている。ゴルバチョフ氏は妻のライサさんと母のマリヤさんがウクライナ人で「自分も半分ウクライナ人だ」と語ったことがある。

重い病にかかったゴルバチョフ氏は病院で療養を続けながら、ウクライナに思いをはせ、早期の和平実現を願っていた。親交の深かったロシアの著名ジャーナリスト、アレクセイ・ベネディクトフ氏が7月20日、雑誌フォーブス・ロシアに、ゴルバチョフ氏の思いを伝えていた。

平和と自由の実現への活動こそが、ゴルバチョフ氏の人生だった。1986年10月のレーガン米大統領(当時)とのレイキャビク首脳会談で米ソ対立から協調へと世界の流れを変えた。89年12月、2つの超大国が覇権を競った冷戦の終結をブッシュ米大統領と宣言したのは、世界平和への願いからだった。

85年にソ連共産党トップに就任し、欧米との協調外交の道を選んだ。グラスノスチ(情報公開)を掲げて、ソ連社会の民主化に取り組み、自由の息吹をもたらした。91年12月のソ連崩壊後も30年にわたり、平和を祈るメッセージを世界に発信し続けてきた。

2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領が踏み切ったウクライナへの軍事侵攻は、すでに重い病に侵されていたゴルバチョフ氏にどれだけの衝撃を与えたことか。ベネディクトフ氏によれば、言葉を発することも難しくなっていたゴルバチョフ氏は自らが世界に残そうとした遺産が「無」になってしまったことを「理解していた」という。

旧ソ連圏を巡る欧米とロシアの勢力争いは終わるどころか激しさを増した。民主化の遅れや経済改革の遅れで国家基盤が依然としてもろい国も少なくない。

プーチン氏の強権統治を批判してきたゴルバチョフ氏だが、支持を示したこともある。14年のロシアによる一方的なウクライナ南部クリミア半島の併合について、英メディアで「(住民投票で併合に賛成した)人々の意思表示を支持する」と認める発言をしていた。

関係者によると、ゴルバチョフ氏はモスクワのノボデビッチ墓地に眠る妻ライサさんの隣に葬られるという。(欧州総局)

(日本経済新聞)

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