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京セラ創業者の稲盛和夫名誉会長が死去 90歳 2022/08/30

稲盛和夫 京セラ名誉会長

京セラの創業者で名誉会長の稲盛和夫(いなもり・かずお)氏が24日午前8時25分、老衰のため京都市内の自宅で死去した。90歳だった。連絡先は同社総務部。葬儀は近親者で行った。お別れの会を行うが、日取りなどは未定。

鹿児島市出身。鹿児島大学工学部卒業後、会社員を経て1959年に京都セラミック(現京セラ)を設立、66年に社長に就任した。小集団単位で厳格に収益管理する「アメーバ経営」と、積極的なM&A(合併・買収)を原動力に、京セラを電子部品から携帯電話端末、太陽電池、事務機器まで手がける世界企業に育て上げた。

通信自由化をにらみ、84年に第二電電を設立して通信市場に参入。KDDなどとの合併を経て現在のKDDIを誕生させた。2005年に京セラの取締役を退任し、経営の第一線から退いた。その後、経営塾「盛和塾」と、文化や技術の発展に貢献した人を顕彰する「稲盛財団」の活動に軸足を移した。

「日本をよくするには政権交代が可能な国にすることが必要」との思いで野党時代から民主党を支援。民主党が与党となった09年に行政刷新会議の議員に就任、10年からは日本航空の会長を務め、再建に奔走した。

経営破綻した日航の再建では会長に就いてアメーバ経営を導入。コスト管理の徹底などで業績を回復させ、再上場にこぎ着けた。内閣特別顧問も務めた。

著書は「アメーバ経営」「人を生かす」など多数。1984年紫綬褒章、97年に得度。2001年3月、日本経済新聞に『私の履歴書』を執筆した。

(日本経済新聞)

平成のカリスマ経営者 稲盛氏死去 京セラ・KDDI創業 劣等感バネ、共感呼ぶ 2022/08/31

創業した京セラ、第二電電(現KDDI)、そして日本航空で絶大なリーダーシップを発揮した。そのカリスマ経営者、稲盛和夫に教えを請おうと、主宰する盛和塾に多くの経営者が集まった。

だが、本人は取材で時折、はにかむような表情を見せた。自ら「どこにでもいるオッチャンですわ」と言う。初めて会った50代の京セラ社長時代から一貫していた。

「私はコンプレックスの塊みたいなもの」と、自分を飾らない。「小学校高学年から落第ばかり」。旧制中学と大学の受験に失敗、就職も希望とは違った。京セラ創業まで挫折の連続だ。

おまけに「少しどもる癖があったので、昔は人前で話すのが苦手だった」。だから社員と車座になって語り合う京セラ独特のコンパが生まれた。

「『おい、お前』と話す座談なら、なめらかに話せる」。若いころから、仕事の話をしながら、どう生きるべきかを社員に熱っぽく語った。

社員の心を一つにするためである。「中小企業の京セラが競争に勝つには、それしかなかった」

こうして会社を小集団に分けて、それを各リーダーに任せる「アメーバ経営」を編み出した。リーダーは自分の分身であり、同志である。

「経営は人間として何が正しいかをよりどころに判断した」。バブル時代、銀行から不動産投資を勧められたが断った。「額に汗して稼がず、土地でもうけるなんて邪道と思ったから」というわけである。

「自分は弱い人間だと知っているので、哲学を大事にして堕落しないための歯止めにしてきた」と言う。自らを律し、日本航空では甘えの抜けない幹部を厳しく叱責した。しかし一般社員には実に柔和な笑顔で接した。

下積みに優しく、権威や既得権者を嫌う。81歳まで現役を続けたバネは、「無一文」から歩み始めた自身のコンプレックスではなかったか。

パナソニックホールディングスの松下幸之助が昭和のカリスマなら、稲盛和夫は平成のカリスマだろう。ともに中堅・中小企業の経営者の共感を呼び、経営を人生論に昇華させた。

15年ほど前に「私の人生は本当に幸せだった」と吐露した。「よく生きる」を一途に追求した稀有(けう)な経営者だった。

(元特別編集委員 森一夫)

(日本経済新聞)

稲盛和夫氏独自の「アメーバ経営」 JALやKDDIで結実 2022/08/30

稲盛和夫氏は京セラや後にKDDIとなる第二電電(DDI)を創業したほか、経営破綻した日本航空(JAL)の再建をなし遂げるなど、経営者として多くの実績を残した。組織を小集団に分け採算管理を徹底する「アメーバ経営」や、自身の経験則に基づいた「フィロソフィ」と呼ぶ独自の経営哲学で組織を活性化した。その優れた経営手腕と仕事に全力で取り組む姿勢は、国内外の多くの経営者に影響を与え続けている。

鹿児島県出身で実家は印刷業。空襲で財産を失い、父が作っていた紙袋の行商を手伝った。旧制中学の受験には2度失敗し、初期の結核にもかかるなど、青年期は苦難の連続だった。

鹿児島大学を卒業後、教授の紹介により1955年、京都の絶縁磁器部品の松風工業に就職。代表的な電子部品の材料であるセラミックの技術者となる。すぐに頭角を現すが上司と衝突し、59年に仲間と8人で会社を飛び出して京セラの前身となる京都セラミックを27歳で創業した。66年に米IBMから集積回路用のセラミック基板を受注したのを機に本格的な成長軌道に乗った。

業容拡大を支えたのが独自の経営手法だ。組織が大きくなるとどの部門が利益を上げ、どの部門の生産性が低いかが見えにくくなるといった弊害が出てくる。アメーバ経営は組織を小集団に分け、部門別に採算や目標を月単位で徹底的に管理することで社員一人ひとりが自主的に経営に参加することを目指した。

ただ単なる個別の採算管理だと「自分の所属する部署さえ良ければいい」という目先の発想に陥る恐れもある。それぞれの社員にフィロソフィと呼ぶ経営哲学を植え付けることで、全員が「利他」の意識を持ち、全体最適を心がけるように仕向けた。

カメラの名門、ヤシカや経営破綻した複写機メーカーの三田工業(現京セラドキュメントソリューションズ)、米電子部品大手のAVX(現KYOCERA AVXコンポーネンツ)、三洋電機(現パナソニックホールディングス)の携帯電話事業など積極的にM&A(合併・買収)を重ねたが多くが頼まれて引き受けた案件だった。フィロソフィにより社員の目線をあわせることで融合を進めていった。

86年に社長の座を譲って会長専任になって以降、京セラは7代にわたってオーナー家以外がトップを務めている。フィロソフィを浸透させることで、創業の精神を維持している。

今では京セラの事業領域は電子部品、太陽電池、事務機器などに広がり、2022年3月期の連結売上高は1兆8389億円、純利益は1484億円の大企業に育った。

稲盛氏の活躍の場は京セラの外にも広がっていた。土光臨調(第2次臨時行政調査会)が電電公社の分割・民営化を答申したのを受け通信分野への参入を決断。84年に第二電電の準備会社を設け、市外電話や携帯電話などの事業に打って出た。

00年には、国際通信最大手のKDD、携帯電話の日本移動通信(IDO)との3社合併を実現しKDDIが発足。国際・国内長距離、携帯電話の各サービスを提供し、NTTに次ぐ総合通信会社をつくり上げた。

旧知だった前原誠司国土交通相(当時)からの再三の要請に応じて10年1月に破綻した日航の再建にも尽力した。会長としてアメーバ経営の手法を持ち込み、部門ごとにコスト意識を徹底。「JALフィロソフィ」も発表し、経営や仕事に対する考え方を改革した。

日航は急速に業績を回復した。11年3月に更生手続きを終了し、12年9月に再上場を果たした。今でも日航ではJALフィロソフィが手帳として配られている。

稲盛氏は自身の経営哲学を伝える「盛和塾」や多くの著作を通じて、国内外の経営者に影響を与えた。盛和塾は稲盛氏から直接学びたいと83年にできた自主的な勉強会「盛友塾」に端を発する。

年5回ほど例会があり、塾生の経営体験発表や講話といった勉強会、経営問答、懇親会などを実施した。また年1回、全国から塾生が集う世界大会を開催。中堅・中小企業の経営者を中心に、かつては元サッカー日本代表の岡田武史監督や、元横綱の白鵬、ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長も学んだ。稲盛氏の意向を受け、19年末に盛和塾は閉塾した。

自身の経営哲学などを解説した著書も多く、国内だけでなく中国などでもベストセラーとなった。

科学技術の振興にも取り組んだ。私財を投じて創設した「京都賞」はこれまでに世界各国の100人以上が受賞し、京都大学の山中伸弥教授や本庶佑特別教授ら後にノーベル賞に輝いた研究者も多い。

(日本経済新聞)

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