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儀仗で見送り、弔砲19発 安倍元首相国葬 首相経験者、55年ぶり 2022/09/28

政府が27日に日本武道館で執り行った安倍晋三元首相の国葬は1967年の吉田茂氏以来、首相経験者では戦後2例目となった。政府は法的根拠として内閣府の所掌事務を規定する内閣府設置法をあげた。

2001年施行の同法は内閣府の所掌事務として4条3項に「国の儀式」を挙げており、今回はこれに当たると位置づけた。政府の正式な呼称は「国葬儀」だ。

国の儀式には天皇の葬儀にあたる「大喪の礼」など憲法が定める天皇の国事行為と、全国戦没者追悼式や東日本大震災追悼式といった閣議決定に基づくものがある。

安倍氏の国葬は閣議決定によるもので大喪の礼などと同列ではない。費用は全額国費を支出する。政府は内閣法制局と法的根拠などの認識を擦り合わせた。

野党などが問題視したのはどういう基準で対象者を決めるのか、それを定めた法律がない点だ。戦前は「国葬令」で対象を定めていた。戦後、日本国憲法の施行に伴って失効し、いまは時の内閣が行政権の行使としてその都度判断する。

岸田文雄首相は安倍氏が銃撃を受けて亡くなった6日後の7月14日の記者会見で国葬を執り行うことを発表し、22日に閣議決定した。

首相は安倍氏が国葬に値する理由を4点示した。(1)憲政史上最長の通算8年8カ月の首相在任(2)東日本大震災からの復興や経済再生、日米関係を基軸とした戦略的外交(3)国際社会からの国をあげた弔意(4)民主主義の根幹である選挙中の銃撃――だ。

政府は基準づくりは不要との立場をとる。国民に義務を課したり行為を強制したりしない限り、新たな法律は必要ないとの認識だ。

安倍氏の親族らによる通夜や葬儀は7月11~12日、東京・芝公園の増上寺で営まれた。安倍氏には浄土宗の戒名が付けられた。このときの弔辞は自民党の麻生太郎副総裁が読んだ。

国葬は日本武道館で無宗教の形式で実施した。国民に弔意を強制せず、普段通りの生活や仕事を促した。官公庁や学校も休みとせずスポーツなどのイベントも自粛を求めなかった。

過去の首相経験者の内閣・自民党の合同葬では広く行政機関に弔意を表す弔旗の掲揚を促してきた。今回は「弔意を強制するとの誤解を招かないため」と弔意表明を求める閣議了解は見送った。国会議事堂や中央省庁、多くの地方自治体で弔旗が掲揚された。

儀仗(ぎじょう)や弔意を表すために空砲を撃つ「弔砲」、音楽隊による「奏楽」を実施した。沿道に等間隔で並んで敬礼する「と列」で安倍氏の遺骨を運ぶ車列を見送った。いずれも閣議了解で決めたものだ。

弔砲は過去の首相経験者への前例に倣って19発とした。陸上自衛隊の専門部隊により20秒間隔で計6分間撃った。

回数は外国賓客の来日時に敬意を示す「礼砲」の回数を定めた規則を準用した。国際的な慣例で6段階あり、最多は国家元首や大統領、皇族の21発。次いで首相や副大統領、その他の国賓を19発としている。

防衛省によると、陸上自衛隊で首都圏の1都6県を担当する第1師団を中心に構成した。儀仗は陸自の第302保安警務中隊と中央音楽隊による特別儀仗隊などが担った。

 

岸田文雄首相の安倍晋三元首相の国葬での葬儀委員長としての「追悼の辞」の全文は次の通り。

安倍晋三元首相の国葬儀が執り行われるに当たり、ここに政府を代表し、謹んで追悼のことばをささげます。

7月8日、選挙戦が最終盤を迎える中、あなたはいつもの通りこの国の進むべき道を聴衆の前で熱く語りかけておられた。そして突然、それは暴力によってさえぎられた。あってはならないことが起きてしまいました。

いったい誰が、こんな日が来ることを寸毫(すんごう)なりとも予知することができたでしょうか。あなたはまだまだ長く生きていてもらわなければならない人でした。

日本と世界の行く末を示す羅針盤として、この先も10年、いや20年力を尽くしてくださるものと私は確信しておりました。

私ばかりではありません。本日ここに日本の各界各層から、世界中の国と地域から、あなたを惜しむ方々が参列してくださいました。みな同じ思いをもってあなたの姿にまなざしを注いでいるはずです。

しかしそれはもはや、かなうことはない。残念でなりません。痛恨の極みであります。

29年前、第40回衆院選にあなたと私は初めて当選し、ともに政治の世界へ飛び込みました。

私は同期の一人として安全保障・外交について、さらには経済・社会保障に関しても勉強と研さんにたゆみなかったあなたの姿をつぶさに見てまいりました。

なによりも北朝鮮が日本国民を連れ去った拉致事件について、あなたはまだ議会に席を得るはるか前から強い憤りをもち、並々ならぬ正義感をもって関心を深めておられた姿を私は知っています。

被害者の方々をついに連れ戻すことができなかったことは、さぞかし無念であったでしょう。私はあなたの遺志を継ぎ、一日千秋の思いで待つご家族のもとに拉致被害者が帰ってくることができるよう全力を尽くす所存です。

2006年、あなたは52歳で内閣総理大臣になりました。戦後に生を受けた人として初めての例でした。

私たち世代の旗手として、当時あなたが戦後置き去りにされた国家の根幹的な課題に次々とチャレンジされるのを、期待と興奮をもって眺めたことを今思い起こしております。

私たちの国日本は美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ。まだまだ大いなる可能性を秘めている。それを引き出すのは、私たちの勇気と英知と努力である。日本人であることを誇りに思い、日本の明日のために何をなすべきかを語り合おうではないか。

戦後最も若い総理大臣が発した国民へのメッセージはシンプルで明快でした。

戦後レジームからの脱却――。防衛庁を独自の予算編成ができる防衛省に昇格させ、国民投票法を制定して憲法改正に向けた大きな橋を架けられました。教育基本法を約60年ぶりに改めて新しい日本のアイデンティティーの種をまきました。

インドの国会に立ったあなたは「二つの海の交わり」を説いて「インド太平洋」という概念を初めて打ち出しました。これらはすべて今日につらなるいしずえです。

そのころあなたは国会で「総理大臣とはどういうものか」との質問をうけ、溶けた鉄を鋳型に流し込めばそれでできる鋳造品ではない、と答えています。

たたかれてたたかれてやっと形をなす鍛造品。それが総理というものだと、そう言っています。鉄鋼マンとして世に出た人らしいたとえです。

そんなあなたにとって、わずか1年で総理の職務に自ら終止符を打たねばならなかったことくらい、つらい事はなかったでありましょう。しかし私たちはもうよく承知しています。

12年の暮れ、もう一度総理の座につくまでにあなたは自らをいっそう強い鍛造品として鍛えていたのです。

「二つの海の交わり」を説いたあなたはさらに考えを深め、「自由で開かれたインド太平洋」というたくさんの国、多くの人々を包摂する枠組みへと育てました。

米国との関係を格段に強化し、日米の抑止力を飛躍的に強くしたうえに、年来の主張にもとづき、インド、オーストラリアとの連携を充実させて「クアッド」の枠組みをつくりました。

あなたの重層的な外交は世界のどの地域とも良好な関係を築かれた。

欧州との経済連携協定と戦略的パートナーシップ協定の締結、そしてアジア地域、ユーラシア地域、中東、アフリカ、中南米地域と、これまでにない果断で率直な外交を展開され、次々と深い協力関係を築かれていった。

平和安全法制、特定秘密保護法など苦しい経過を乗り切ってあなたは成就させ、ために、日本の安全はより一層保てるようになりました。

日本と地域、さらには世界の安全を支える頼もしい屋根をかけ、自由、民主主義、人権と法の支配を重んじる開かれた国際秩序の維持増進に、世界のだれより力を尽くしたのは安倍晋三その人でした。

私は外務大臣として、その同じ時代を生きてきた盟友としてあなたの内閣に加わり、日本外交の地平を広げる仕事に一意専心取り組むことができたことを一生の誇りとすることでしょう。

国内にあってはあなたは若い人々を、とりわけ女性を励ましました。子育ての負担を少しでもやわらげることで希望出生率をかなえようと努力をされた。

消費税を上げるかわりに、増える歳入を保育費や学費を下げる途に用いる決断をしたのは、その途の先に、自信を取り戻した日本の若者が新しい何かを生み出して、日本を前に進めてくれるに違いないと信じていたからです。

あなたは我が国憲政史上最も長く政権にありましたが、歴史はその長さよりも達成した事績によってあなたを記憶することでしょう。

「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」という新渡戸稲造の言葉を、あなたはいちど防衛大学校の卒業式で使っています。

Courage is doing what is right. 安倍さん。あなたこそ、勇気の人でありました。

一途(いちず)な誠の人、熱い情けの人であって、友人をこよなく大切にし、昭恵夫人を深く愛したよき夫でもあったあなたのことを、私はいつまでも懐かしく思い出すだろうと思います。そして日本の、世界中の多くの人たちが「安倍総理の頃」「安倍総理の時代」などとあなたを懐かしむに違いありません。

あなたが敷いた土台のうえに持続的で、すべての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていくことを誓いとしてここに述べ追悼の辞といたします。

安倍さん、安倍総理。お疲れさまでした。そして本当にありがとうございました。どうか安らかにおやすみください。

 

菅義偉前首相の安倍晋三元首相の国葬での友人代表としての「追悼の辞」の全文は次の通り。

7月の8日でした。信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で同じ空気を共にしたい。

その一心で現地に向かい、そしてあなたならではのあたたかなほほえみに、最後の一瞬接することができました。あの運命の日から80日がたってしまいました。

あれからも朝は来て、日は暮れていきます。やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくようになりました。

季節は歩みを進めます。あなたという人がいないのに時は過ぎる。無情にも過ぎていくことに私はいまだに許せないものを覚えます。

天はなぜよりにもよってこのような悲劇を現実にし、命を失ってはならない人から生命を召し上げてしまったのか。悔しくてなりません。悲しみと怒りを交互に感じながら今日のこの日を迎えました。

しかし安倍総理…とお呼びしますが、ご覧になれますか。ここ武道館の周りには花をささげよう、国葬儀に立ちあおうとたくさんの人が集まってくれています。

20代、30代の人たちが少なくないようです。明日を担う若者たちが大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。

あなたは今日よりも明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという強い信念を持ち、毎日毎日、国民に語りかけておられた。そして日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。これがあなたの口癖でした。

次の時代を担う人々が未来を明るく思い描いて初めて経済も成長するのだと。

今あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上にうれしいことはありません。報われた思いであります。

2000年、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。私は当選まだ2回の議員でしたが「草の根の国民に届くならよいが、その保証がない限り軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で大反対の意見をぶちましたところ、これが新聞に載りました。

すると記事を見たあなたは「会いたい」と電話をかけてくれました。「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため一緒に行動してくれればうれしい」とそういうお話でした。

信念と迫力に満ちたあの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。

そのまっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。この人こそはいつか総理になる人、ならねばならない人なのだと確信をしたのであります。私が生涯誇りとするのは、この確信において一度として揺るがなかったことであります。

あなたは一度持病が悪くなって総理の座を退きました。そのことを負い目に思って2度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。最後には2人で銀座の焼鳥屋に行き、私は一生懸命あなたを口説きました。それが使命だと思ったからです。

3時間後には、ようやく首を縦に振ってくれた。私はこのことを菅義偉、生涯最大の達成としていつまでも誇らしく思うであろうと思います。

総理が官邸にいるときは欠かさず、1日に1度、気兼ねのない話をしました。今でもふと一人になると、そうした日々の様子がまざまざとよみがえってまいります。

環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に入るのを私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見でどちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。

一歩後退すると勢いを失う。前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。あなたの判断はいつも正しかった。

安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など難しかった法案を全て成立させることができました。

どの一つを欠いても我が国の安全は確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものであります。

国難を突破し、強い日本を創る。そして真の平和国家日本を希求し、日本をあらゆる分野で世界に貢献できる国にする。そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、あなたは常に笑顔を絶やさなかった。いつも周りの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。

総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした。

私だけではなく、すべてのスタッフたちがあの厳しい日々の中で、明るく生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは我が国日本にとっての真のリーダーでした。

衆院第1議員会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武著「山県有朋」です。ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。

印をつけた箇所にあったのは、いみじくも山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌でありました。いまこの歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

深い悲しみと寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。どうか安らかにお休みください。

(日本経済新聞)

戦後の歴代首相 「内閣・党合同葬」が主流 2022/09/28

戦後、首相経験者の国葬は1967年の吉田茂氏のみで、75年に死去した佐藤栄作氏は内閣と自民党、国民有志が費用を分担した「国民葬」だった。大平正芳氏以降は「内閣・自民党合同葬」が主流となった。

政府によると国葬や国民葬、合同葬に明確な法律上の定義はない。支出の主体の違いで呼称を使い分けてきた。

67年の吉田氏の国葬は同氏を師と仰いでいた当時の首相、佐藤氏の意向で決めた。外国を歴訪中だった佐藤氏はマニラで吉田氏の死を知る。日本にいた木村俊夫官房長官らに電話で国葬の準備を指示した。

佐藤氏自身も外国訪問の日程を切り上げて吉田氏死去の翌10月21日夜に帰国。23日の閣議で国葬とすることを決めた。当時は戦前の国葬令が失効しており、特例扱いで実施することで野党の理解を取り付けた。

各省庁に弔旗掲揚や黙とうを求める閣議了解をし、国民にも「同様の方法で哀悼の意を表するよう協力を要望」した。

日本武道館での国葬には72カ国の外交使節、各界代表者などおよそ6000人が参列した。追悼の辞は葬儀委員長を務めた佐藤氏が読んだ。当時の野党第1党、社会党の幹部も国葬に参列した。一般参列者は3万人を超えたという。関連費用は1800万円を国が全額支出した。

当日は昼すぎに吉田氏の遺骨を載せた車列が神奈川県大磯町の自宅を出発。当時の映像からは日本武道館に向かう沿道で多くの人が見送る様子がうかがえる。学校や職場は半日休みとなり、街頭でサイレンなどが流れて人々が黙とうした。

75年の佐藤氏の際も国葬を求める声はあった。野党などの反対を踏まえ、国民の一部有志も費用を出して主催する「国民葬」の形式で決着した。

80年に亡くなった大平氏以降、党と国が費用を折半する「合同葬」が主流となった。93年に亡くなった田中角栄氏のときは党と田中家の合同葬だった。ロッキード事件で逮捕され刑事被告人のまま亡くなったためで、当時の政権も細川護熙政権で、自民党は野党だった。式場の青山葬儀所には政財界関係者に一般の人も加わり、およそ5000人が参列した。

 

戦前の国葬の例は… 伊藤博文や山本五十六

戦前の国葬は1926年公布の「国葬令」が法的根拠だった。皇太子ら皇族のほかに「国家に偉勲ある者」を対象とし、天皇の「おぼしめし」で国葬を営むことができると規定した。「国民は喪に服す」とも定めていた。

大正天皇の崩御に備えた法整備の一環として崩御の2カ月前に制定したもので、それまでは個別の勅令に基づいていた。首相経験者では伊藤博文や山県有朋、松方正義、西園寺公望の各氏らの例がある。

09年に中国東北部のハルビン駅で銃撃を受けて暗殺された伊藤氏の場合、遺体は軍艦で横須賀港に運ばれ、暗殺から1週間ほど後の11月4日に国葬を営んだ。式場となった日比谷公園に収まりきらない数の参列者が集まったという。

山県氏の国葬は22年2月に日比谷公園で執り行われた。その前月に同じ日比谷公園で営まれた大隈重信氏の国民葬のほうが参列者が多かったことが当時話題になったと伝えられる。

軍人では日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎氏や、太平洋戦争で戦死した連合艦隊司令長官、山本五十六氏も国葬で送られた。

特に山本氏は皇族や華族でない平民として初めての国葬だった。戦死は1カ月ほど隠されていたが、43年6月に日比谷公園で国葬を催した。当時の東条英機首相が参列するなど戦意高揚につなげる狙いもあったとの見方がある。

(日本経済新聞)

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