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国際政治経済最新情報

International Political Economy Updates

安倍晋三元首相が死去 67歳、演説中に銃で撃たれる 2022/07/08

安倍晋三元首相が8日死去した。67歳だった。奈良市で参院選の街頭演説中に銃で撃たれた。安倍氏は2006~07年と12~20年の2度にわたり首相を務め、通算の在任日数は3188日で憲政史上最も長かった。

安倍氏は8日午前11時半ごろ、奈良市内の路上で街頭演説をしていたところ、男に背後から銃で撃たれた。右首と左胸を負傷し、病院に運ばれた。現場近くにいた警察官が男を取り押さえ、殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。

国政選挙の期間に演説中の首相経験者が銃撃され、殺害される事件は極めて異例だ。警察庁は事件を受け対策本部を設置。当時の警備に問題がなかったかも検証する。動機などの解明が焦点となる。

奈良県警によると男は奈良市大宮町3、職業不詳、山上徹也容疑者(41)で、「安倍元首相の政治信条への恨みではない」と供述している。銃も押収した。県警は手製の銃が使われた可能性があるとみている。

県警は8日、山上容疑者の自宅などを家宅捜索した。

総務省消防庁によると、安倍氏は右首に銃創と出血があるほか、左胸にも皮下出血が確認された。安倍氏は心肺停止状態で現場から搬送された。

安倍氏の8日の街頭演説を巡っては奈良県警の警衛警護・危機管理対策参事官をトップとする警護体制が組まれた。警視庁のSP(セキュリティポリス)も警戒に当たっていた。

安倍氏は衆院山口4区選出で当選10回。父は晋太郎元外相、父方の祖父は寛元衆院議員、母方の祖父は岸信介元首相という政治家一家に育った。晋太郎氏の急死を受けて1993年に当時の衆院山口1区から初当選した。

小泉純一郎政権で官房副長官を務め、2002年の小泉氏の北朝鮮訪問に同行した。自民党幹事長、官房長官に登用された。

小泉氏の首相退任後、06年9月に当選5回、52歳で首相に就いた。戦後最年少で初の戦後生まれの首相だった。07年7月の参院選で敗れて参院で野党に逆転を許すと、9月に自身の体調不良により辞職した。

自民党の野党転落後に党総裁として臨んだ12年12月の衆院選で政権に復帰し、第2次政権を発足した。

金融緩和、財政出動、成長戦略の3本の矢からなる経済政策「アベノミクス」に力を注いだ。在任中に2度の消費税増税を実現した。

外交・安全保障では日米同盟を重視した。14年に集団的自衛権を行使できるように憲法解釈を変更し、15年の通常国会で安保関連法が成立した。16年に米国のオバマ大統領の広島訪問を実現させ、17年に就任したトランプ大統領と信頼関係を築いた。

14年と17年の衆院選や13、16、19各年の参院選は自民党を率いて連勝し、20年9月に持病の再発を理由に退くまで7年半以上にわたり政権を維持した。第2次政権以降の連続在任日数も2822日と歴代最長になった。

首相退任後は21年11月に党最大派閥でかつて所属した清和政策研究会に戻り、会長に就任した。今回の参院選期間中は自らの派閥の候補らの応援で全国を回っていた。自民党本部によると8日は奈良県に続き、京都府、埼玉県を訪れる予定だった。

政治家の襲撃としては02年に民主党(当時)の石井紘基衆院議員が自宅前で男に刃物で刺され亡くなる事件が起きた。

1992年に栃木県足利市で自民党副総裁だった金丸信氏が銃で狙われた。90年には自民党の浜田幸一氏が鉄製パイプのような物で頭を殴られた。

(日本経済新聞)

アベノミクス、日本の転換点 「3本の矢」で円安・株高 日銀総裁「デフレ脱却へ成果」 消費税2度引き上げ 2022/07/09

安倍晋三元首相が手掛けた「アベノミクス」などの経済政策は2010年代の景気回復を後押しした。大胆な金融緩和で円高の流れを止め、法人税引き下げや環太平洋経済連携協定(TPP)参加などで企業活動の活性化を促した。持続的な成長やデフレからの完全脱却には課題を残したものの、一連の取り組みが日本経済の転換点になった。

「アベノミクスは近年の経済政策の象徴。投資家の心情にも少なからず影響する。日銀の総裁人事や今後の金融政策にも影響が出るだろう」。インベスコ・アセット・マネジメントの木下智夫グローバル・マーケット・ストラテジストはこう話す。

CLSA証券の釜井毅生エグゼキューション・サービス統括本部長は「昼休み中だったトレーディングルームも騒然とした」と振り返る。安倍氏の銃撃の速報が伝わったのは午前11時40分すぎ。為替が大きく反応し、取引が続いていた日経平均先物は急落するなど市場に動揺が広がった。

東京株式市場で日経平均株価は午前に前日比400円近く上昇していたが、26円高の2万6517円で取引を終えた。外国為替市場では円が買われ、一時1ドル=135円30銭台まで上昇した。

「安倍元首相はアベノミクスの立役者として円安・株高を導いた。市場はその『逆』を意識し円高・株安で反応した」とみずほ証券の上野泰也チーフマーケットエコノミストは分析する。

2012年12月に発足した第2次安倍政権は(1)大胆な金融緩和(2)機動的な財政政策(3)民間投資を喚起する成長戦略――の「3本の矢」を掲げた。就任時に1ドル=80円台半ばだった為替レートは円安に転じ、リーマン・ショックや東日本大震災で低迷していた企業の景況感も好転した。12年11月が谷となった景気は18年10月の山に至るまで71カ月にわたり拡張した。

就任直後に政府・日銀で共同声明を公表するなどデフレ脱却に力を入れた。13年春に就任し、異次元の金融緩和に踏み切った日銀の黒田東彦総裁は安倍氏について「デフレからの脱却と持続的な経済成長の実現に向けて多大な成果を残された」とのコメントを文書で発表。「経済の発展に尽くされたことに心より敬意を表する」と述べた。

消費者物価指数(CPI)上昇率は、08~13年春まで平均マイナス0.3%だったが、13年春~20年秋は消費増税の影響を除き平均0.5%とプラス圏に浮上した。首相在任中に政府・日銀が目指した2%の物価目標には届かなかった。

雇用は増えた。就任時に6263万人だった就業者数は退任時の20年9月には400万人あまり増えた。特に女性や高齢者の就労が進んだ。同期間に失業率は4.3%から3.0%に下がった。賃金は伸び悩みが続き好循環には至らなかった。

停止していた経済財政諮問会議を再開し、経済政策全体の司令塔機能を復活。法人税率引き下げや規制緩和に取り組んだが、金融・財政政策に比べ3本目の成長戦略の矢は効果が出にくかった。13~19年の実質経済成長率は先進7カ国平均の1.6%に対し日本は0.9%にとどまり、持続的な成長は道半ばだった。

日本経済のグローバル対応も取り組んだ。TPP交渉に参加し、米国離脱後も残りの各国で協定発効にこぎ着けた。ビザ緩和などを通じ訪日外国人観光客数を拡大させ、12年の836万人からコロナ前の19年には3188万人まで増えた。

安倍元首相は政界で避けられがちな消費増税を2度実施した。引き上げ自体は12年の民主、自民、公明の3党による社会保障と税の一体改革で決めていた。まず14年4月に5%から8%にし、その影響で景気が落ち込んだため当初想定から4年遅くなったものの19年10月に10%に引き上げた。

安倍氏は高齢化社会に耐えるために必要性を訴えたほか、増税分の使途の一部を幼児教育・保育の無償化財源に回した。社会保障財源の土台をつくった。12年度に10.4兆円だった消費税収は21年度に21.9兆円と2倍強に増えた。法人税や所得税を上回る最大の税収源になった。

ただ2度の増税にもかかわらず財政の健全化はなお遠い。高齢化の加速で社会保障関係費は過去最大を更新し、新型コロナウイルス対策でも借金を重ね、日本の財政状況は先進国で最悪の状況に拍車がかかる。政府は国と地方の基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化目標を度々先送りし、25年度の黒字化目標も達成が難しい。

アベノミクスで政府が財政を拡張し、発行が増えた国債を日銀が金利水準の維持を目指して買い支える構図が定着した。足元では世界の中央銀行が利上げに動いたことで円安の加速を懸念する見方も強まっている。

(日本経済新聞)

安倍晋三元首相、時代を画した保守政治家(評伝)安全保障関連法・アベノミクスで功績 2022/07/09

暴漢に襲われた安倍晋三元首相はくしくも父、晋太郎氏と同じ67歳で亡くなった。

昨年9月の誕生日には「父がなれなかった首相になり、年齢でも父を超える。残りの人生、あとは精いっぱいやるだけだ」と語っていた。

安倍氏は2012年12月に首相に返り咲いた後、経済政策「アベノミクス」を掲げて経済立て直しを進め、巧みな政権運営で7年8カ月にわたって政権を担った。

「戦後最年少の首相」「憲政史上最長の通算在任期間」といった記録が目立つが、第2次政権発足の前と後で日本の政治状況を一変させた。「Japan is back」。首相復帰直後の訪米で講演した言葉通り、国際社会で日本のプレゼンスを高めた。

なかでも安定した基盤を生かし日本の外交・安全保障政策を変えた功績は大きい。15年には集団的自衛権を行使できるようにする安保関連法を成立させた。

外交面ではトランプ前米大統領との親密な関係を築き、国際政治の安定に努めた。トランプ氏との関係に手を焼く外国首脳からコツを尋ねられることもあった。

16年に提唱した「自由で開かれたインド太平洋」を巡る構想は、その後の国際社会の潮流を先取りしたものだった。軍事的に台頭する中国への対応を念頭に、米太平洋軍はインド太平洋軍に改称。欧州主要国もインド太平洋戦略を相次ぎ策定し始めた。

その後の業績に反して、首相復帰に先立つ自民党総裁選では当初、泡沫(ほうまつ)候補だった。「持病で首相を投げ出した」というレッテルがついて回った。

後に官房長官に起用する菅義偉氏の働きかけを受けて出馬を決心。盟友の麻生太郎氏には「政治家としてこのままでは終われないんです」と訴え、立候補にこぎつけた。

07年の首相辞任後、自民党が下野した09年衆院選では「一から出直す」と地元を駆けずり回った。東日本大震災後、国力が落ちていく日本を安倍氏は野党の立場から眺めていた。「やっぱり力がないのは悲しい。やりたいと思ったこともできない」と歯がゆさを漏らした。

首相に返り咲いて取り戻したかったのは「国際社会で誇れる国」だった。

首相復帰から2カ月後の13年2月中旬。当時赴任していた北京から一時帰国した際に会うと、安倍氏の表情は明るかった。「落ち込んだ国の力を一気に引き上げたい。海外でも再び日本人が堂々と生活できるようになるんじゃないか」と話していた。

首相退任後も「闘う政治家」であり続けた。問題提起をいとわず、自民党内で政策論議が活発さを失うことはなかった。

憲法改正や防衛費の増額などを主張し、最大派閥トップの立場を生かして実現を目指す意気込みをみせた。

「参院選後は出番が増えそうだね」。7月初旬、報道各社の情勢調査で改憲に前向きな勢力の議席が増えそうだと聞き、街頭演説で少しからした声でこう語っていた。祖父、岸信介氏と同じく、悲願とした改憲をみることはできなかった。

政権は優しいだけでは長続きしない。政治家一家に生まれた環境ゆえに様々な思惑を持って人が近づいてくる。「人間関係は突き詰めれば裏切る人かどうかだ」と言明する厳しい一面も持ちあわせていた。

国会では野党議員にヤジを飛ばすなど、一般的な首相像とは異なる戦闘的な姿勢で物議を醸したこともあった。野党は森友・加計学園や「桜を見る会」を巡る問題を追及した。

根っからの派閥の人でもあった。21年11月にかつて父が率いた清和政策研究会のトップに就くと「やっと派閥の長になれました」と周囲に喜びを報告した。

悲劇の地となった奈良入りも自派閥の候補者を応援するため、前日に急きょ変更した予定だった。

襲撃前日の昼、参院選候補者の取材をしていると安倍氏から電話を受けた。「あすは長野行きの予定を変更して奈良に行こうと思う」と話した。「やっぱり自派閥議員はかわいいから、苦戦と聞くと行きたくなる」とも口にした。応援に入った地で襲われた。

祖父は戦後、戦犯の容疑で収監され、父は首相を目前に病魔に倒れた。一族の歴史は輝かしさとともに憂いがつきまとう。それでも安倍氏は政治家を志し、38歳で初当選した。「不動心」。父が好んで使った言葉をよく色紙に揮毫(きごう)していた。

安倍氏に向けられた凶弾は2発という。映像を見る限り、1発目の銃弾を受けても動じず、マイクを手放していない。最期まで聴衆に語りかけようとする姿勢に、政治家一族が受け継いできた覚悟を感じた。

(政治・外交グループ部次長 島田学)

(日本経済新聞)

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